昼寝好男のブログ

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『論理哲学論考』,ウィトゲンシュタイン 〜 読後レビュー 〜

ウィトゲンシュタインは、言語(どこの国の言語でもよい)で記述しうる表現範囲の広さに絶大な信頼を置いている。言語は世界をくまなく写し取り、また世界に存在しないものまでを表現しうる能力を備えている。言語は、すべての思考を表現し、あるいは思考とは言えないナンセンスをも表現する能力を持っている。

ウィトゲンシュタインが現れるまでの哲学は、(あるいは彼以降の哲学であってもそれは同じであるが)、言語を用いて記述されてきた(形式言語も言語の一種である)。ウィトゲンシュタインは考える。言語は途方もない表現能力を有している。この言語を用いて表現されたありとあらゆる言説空間に対して、意味のある領域とナンセンスな領域との境界を引くことができないか?

およそ哲学というものの言説は、それが真であるか偽であるかが問題になる(真偽のいずれとも言えない言説を哲学と言えるだろうか?)。そこでまずウィトゲンシュタインは、この問題を扱えるのに十分なレベルまで、言語の範囲を著しく縮退させるところから始める(言語の縮退の外側で表現される言説はそもそも真偽とは別のところにある)。

さて、世界に存在する事実(要素事実)のすべてを、列挙できたとしよう(ここが出発点なので、それができるかどうかについては問わないことにする)。ここで要素事実とは、それ以上は分解ができない事実のことである。複数の事実が組み合わさった複合的な事実は分解できるところまで分解してしまう。我々が扱う言語の表現範囲は、まずはこのような要素事実を写し取れるだけで十分である。だからたとえば命令文であるとか、疑問文であるとか、呼びかけであるとか、挨拶であるとか、感情の表現であるとか、態度の表明だとか、通常の言語なら備えている表現は考慮の外に置く。

ここまで言語の表現範囲を縮退しても、なお、言語は事実ではありえない言説を生むことができる。たとえば「1+1は2である」と言うのと同じ言語表現の枠組みを使って「1+1は3である」と言える。このように要素事実を表現するのに必要十分なまでに縮退された言語が表しうる表現の空間を論理空間という。つまり論理空間に位置する点はなんらかの要素命題を表し、それが真か偽かは、世界に存在するかどうか(事実であるかどうか)を見れば決定付けられるということになる。

次に、論理空間の中で、基本的な命題(要素命題)を複合させた命題(複合命題)を考える。これは、いわゆる論理記号を用いて複合させればよい。論理空間の点は、すべて真偽が明らかになるから、そこから導出されるすべての命題も、真偽が明らかになる。この導出は、次のようにおこなう。

[ p..., ξ..., N(ξ...) ]

ここで「...」と書いたのは、ウィトゲンシュタインが用いた式においては、その左にある文字の上に載っている横棒で表記され、不定個数の引数を意味する。また、外側の[]はウィトゲンシュタインの言うところの「操作」を表す。現代の用語で説明するなら、次のような再帰定義に相当する。

(1)p...は任意の要素命題である。要素命題は命題ξである。 (2)任意の数の命題ξ...を論理記号で結合したものも命題ξである

ウィトゲンシュタインが主張する上式には1つポイントがあって、すべての論理記号はN(ξ...)から導出できるのだが、これは数理論理学的な興味の対象ではあっても、哲学議論の本質とは無関係なので説明は省略する。ここではN(ξ...)は論理積や論理和などの論理記号一般だと思ってもらえばいい。

このようにして生成された命題は、すべて真偽のどちらかが定まる(真偽の定まる要素命題から出発しているので当然)。そのなかで注意すべき命題の形態が2つある。ひとつは「p かつ pでない」のように必ず偽となる命題。これを「無意味」と言う。もうひとつは「p または pでない」のように必ず真となる命題。これを「ナンセンス」と言う。このようにして構成された命題集合の総体が(縮退された)言語の表現可能な範囲であり、その中で真となる命題の集合が(我々が哲学で語ることができる)世界だということになる。

およそ真偽を相手にする議論では、この範囲でしかものは語れない。その際、無意味やナンセンスに陥らないように注意すべきことは言うまでもない。これまでの哲学の多くは、この範囲を逸脱していたのではないか?ウィトゲンシュタインは言う、「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」と。

カントは、認識という観点から認識し得るものと認識し得ないものとの線引きをした。理性の限界を定めようとしたという点ではウィトゲンシュタインも同じで、彼は学問で扱える言語の範囲(語りえるもの)と扱えない範囲(語りえないもの)の線引きをした。

以上が『論理哲学論考』のざっくりとした流れなのだが、実はウィトゲンシュタインがもっとも言いたかったことは別のところにある。

言語は世界を写し取ると書いた。ウィトゲンシュタインは、所々で「私の世界」、「私の言語」という表現を使っている。つまり、世界とは、人類すべてが共通して感じている客観的な世界のことではないのだ。個人がその人独自の世界観の中で捉えている世界のことなのである。そして、言語というのもその個人が操る言語のことを意味する。

何が言いたいかといえば、個人個人で世界は違う。世界を表しうるものは上記のように定式化したけれども、それは世界の要素要素のことであって、世界全体は個人ごとに違う。世界全体を記述するわけにはいかない。なぜなら世界全体も「語りえぬもの」だから(世界を表現するところの「論理形式」は論理形式自身では扱えない。このことは上式からも自明である)。また、世界に含まれていないことについても「語りえない」。この語りえないものには、たとえば道徳や倫理が該当する(我々は真偽を表しうる必要十分なところまで言語を縮退してからスタートしたことを思い出そう)。

個々人は、幸福の度合いが異なっている。なぜ、異なるのか?ウィトゲンシュタインはその差をけっして語ることはできない「世界」の相違なのではないかと考えた。この問題に関するウィトゲンシュタインの言葉を引用しよう。これは『論理哲学論考』の途中に出てくるオマケ的な言及ではない。『論理哲学論考』のクライマックスを構成する盛り上がりの部分なのである。

6.41 世界の意義は世界の外になければならない。世界の中ではすべてがあるようにあり、すべては起こるように起こる。世界の中には価値は存在しない。--仮にあったとしても、それはいささかも価値の名に値するものではない。 価値の名に値するものがあるとすれば、(中略)、それは世界の外になければならない。


6.42 それゆえ倫理学の命題は存在しない
命題は(倫理という)より高い次元をまったく表現できない。

註:真偽を決められる命題という形式で倫理学は扱えないという主張。奇しくもカントの純粋理性批判や判断力批判に通じることが注目に値する)。

6.421 倫理が言い表しえぬものであることは明らかである。
倫理は超越論的である(倫理と美はひとつである)。


6.423 倫理的なものの担い手たる意志について語ることはできない

註:くどいようだが、真偽を決めるのに必要十分なまでに縮退された言語で語ることはできないという意味)。

6.43 善き意志、あるいは悪しき意志が世界を変化させるとき、変えうるのはただ世界の限界であり、事実ではない(註:世界の限界とは、「語りえない部分」を意味する)。
すなわち、善き意志も悪しき意志も、言語で表現しうるものを変化させることはできない。
ひとことで言えば、そうした意志によって世界は全体として別の世界へと変化するのでなければならない。いわば、世界全体が弱まったり強まったりするのでなければならない。
幸福な世界と不幸な世界とは別物である

註:語ることはできないにしても、幸福を感じている人の世界と、不幸を感じている人の世界は決定的に異なっているということだろう。

6.431 同様に、死によっても世界は変化せず、終わるのである

註:世界を変えない限り、死んでも救われない。ただそのままの世界のまま生が終了するのであるという意味だろう。

6.52 生の問題の解決を、ひとは問題の消滅によって気づく。
(疑いぬき、そしてようやく生の意味が明らかになったひとが、それでもなお生の意味を語ることができない。その理由は、まさにここにあるのではないか。)

註:生きる意味については「語りえない」ことなので、生の問題が解決した人はそれを語ることができない。そして、楽になった、幸福になったという実感はあれ、そうなった理由を語ることができないのだろう、といった意味か?きっとウィトゲンシュタインは生が苦しかったのだろう。

次の文が6章の最後の一文である

6.54 私を理解する人は、私の命題を通り抜けーーその上に立ちーーそれを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。そのようにして私の諸命題は解明を行う。(いわば、梯子を上りきった者は梯子を投げ捨てねばならない。)
私の諸命題を葬り去ること。そのとき世界を正しく見るだろう。

そして『論理哲学論考』は次の7章で終わる。7章はこの1文しかない

7 語りえぬものについては、沈黙せねばならない。

註:ウィトゲンシュタインは、語りえないものこそが重要であるといいたかった。そしてその語りえぬもののためには、ここで論じたことなど、何の役にも立たないのである


僕は数学者としてのバートランド・ラッセルを尊敬している。素朴集合論の矛盾を切り出したのはラッセルだし、後の公理的集合論が生じる素地を固めた人だからだ。アインシュタインとの核廃絶に関する共同宣言(ラッセル=アインシュタイン宣言)でも知られる彼は、平和運動のために投獄されてもいる(ラッセルは一貫した平和主張によりノーベル平和賞を授与されている)。数学/哲学と平和への行動を両立し、実践した人だったのだ。

だが、この『論理哲学論考』に寄せているラッセルの序文はいただけない。この序文に関してウィトゲンシュタインは「あなたの原稿のきわめて多くの箇所に、私は同意できないでいます。あなたが私を批判された箇所もそうですが、私の見解をただ説明しようとなさっている箇所もまた、同様です」とラッセルに手紙を送っている。ウィトゲンシュタインは変人で知られているので、わがままなウィトゲンシュタインに反発されてラッセルも可哀想にと思っていたのだが、実際に序文を読んでみて、ウィトゲンシュタインの激怒はもっともだと思った。完全に読み誤っているのだ。しかも誤りは何箇所もある。だが、それをここで指摘しても仕方ない(訳注として冷静に誤りが指摘されているので、興味のある人は岩波文庫版を参照のこと)。

翻訳者の野矢茂樹氏は、ラッセルの序文を敢えて本文の後に再配置している。たしかにこの序文を最初に読んでしまったら、ウィトゲンシュタインが展開する論旨に混乱しそうだ。哲学者でもあるラッセルが、なぜ、こうも『論理哲学論考』を読み誤っていたのか不明だが、ラッセルがやっつけ仕事で序文を書いたとも思えない。この序文はとても丁寧に論が勧められているし、文庫本にして30ページもの分量がある。

ウィトゲンシュタインの論理展開に数学的厳密さはない。出てくる概念の定義が曖昧だし、論理展開も首を傾げたくなるところがたくさんある。それでも、ところどころでフレーゲやラッセルの理論を痛烈に批判している箇所があって、その指摘は鋭い切っ先をもった刃物で突くような凄みを見せている。師であるラッセルは、ウィトゲンシュタインを畏敬していたと伝えられている。全体的な数学的レベルはラッセルの方が上であるにしても、ときにラッセルの論理的欠陥に敏感に気づき、それを攻撃的に批判したウィトゲンシュタインをラッセルが恐れていたとしても不思議ではない。

ウィトゲンシュタインは、中期、後期と哲学の内容が変遷していく。論理的なアプローチはすでに中期で破棄しているらしい。だが、永井均氏によれば、「自分の世界」、「自分の言語」という唯我論的な問題意識は、後期までずっと保っていたという。ウィトゲンシュタインが「梯子を上りきった者は梯子を投げ捨てねばならない」と書いたのは、はったりではなかったのだ。本当に大切だと感じているものが他にあるからこそ、ウィトゲンシュタインは投げ捨ててしまえと言えたのである。