昼寝好男のブログ

日々の経験から役立ちそうな内容を綴ります

『存在と時間』,ハイデガー 〜 読後レビュー 〜

ハイデガーが予示している本書の章立ては次のようになっている。

●序論 存在の意味への問いの呈示

●第一部 時間性へと向けた現存在の解釈と、存在への問いの超越論的地平としての時間の解明
○第一篇 現存在の予備的な基礎的分析
○第二篇 現存在と時間性
○第三編 時間と存在

●第二部 存在論の歴史の現象学的解体
○第一篇 カントの時間論について
○第二篇 デカルトの「我あり」と「思う」について
○第三篇 アリストテレスの時間論について

このうち、第一部第二篇までが刊行されていて、残りの執筆は放棄されている。全体構想のおよそ3分の1しか執筆されていない未完の書でありながら、20世紀最大の哲学書として『存在と時間』を挙げる哲学者が数多くいる。それはなぜなのだろうか。

『存在と時間』を一度読んだだけで、僕はすべてを理解できたなどと言うつもりはない。実際、わからないところがたくさんあった。それでもわからないなりに、本書の重要性はひしひしと伝わってきた。僕なりに捉えた本書の重要性は2つある。

1つ目は、ギリシア哲学が問題にして以降ずっと忘れ去られていた存在への問いを発掘した点にある。忘れ去られていただけではない。ハイデガーによれば、ギリシア以降の哲学は、無意識のうちにプラトンやアリストテレスが打ち立てた存在概念に捕らわれ続けてきた。ハイデガーはそれを看破し、19世紀までに打ち立てられた哲学全体を揺るがすような問題提起をしたのだ。この衝撃は、それまでの哲学全体を解体するほどの事件だったことだろう。

2つ目は、存在とは何かを究明するためとはいえ、「存在」を了解する当の存在である我々人間の実存に対して鋭く切り込んだ点である。それはたとえば、「恐れ」と「不安」を取り上げた章において、両者は一見似ているがまったく異なっていると分析しているところなどによく表れている。ハイデガーは、両者の相違点として、恐れというものが「何を恐れるのか」という対象がわかっているのに対し、不安というものは「何が不安なのか」という対象がわからないからこそ不安なのであると分析している。この「恐れ」と「不安」の違いは、恐れの対象が「目の前にあるあり方」をとるのに対して、不安の対象が「目の前にあるあり方」ではないというところに特徴があり、後者の方がより本来的な実存に根ざしているとする。本来的な実存とは、簡単に言ってしまえば、ほかの誰でもない自分の死の意味を直視しており、自分の死とともに自分の世界がプツリと閉ざされてしまうことを実感としてわかっており、その時が必ず到来することを予期しているあり方を言う。非本来的実存においても、もちろん人は誰でも死ぬことはわかっているわけだが、「まだその時は当分来ないだろう」などと相対化しており、自分が死んだ後でも「世の中」は続くなどと考えることによって「本来的な不安」から逃れているあり方を言う。

さて、この大著について系統的に何かを論ずるのは荷が重いので上記2点を示すまでに留め、以降は雑駁な感想を述べよう。

「存在の問い」とは、文字通り存在とは何かという問いである。この問いの難しさは、たとえば「美とは何か」という問いと比較してみるとわかりやすい。「美」という抽象的な概念について定義を述べるのは難しい。そこでたとえばプラトンは「美のイデア」というものが存在していて、世の中にある美しいものは全て、美のイデアを具現化したものだと考えた。アリストテレスは、イデアなどという抽象的なものを都合よく考えるのではなく、世の中の物質がもともと「美」という形相を持ち合わせているのだとして、「美」がまだ現れていない状態である可能態と、それが形を現した状態である現実態とがあるのだと考えた。このようにして、哲学は「美」というものを曲がりなりにも扱うことができたが、「存在」はそうはいかない。仮にプラトンの考え方で「存在のイデア」があって、森羅万象の存在はこのイデアが具現化したものなのだと考えてみる。すると「存在のイデアがある」というその存在自体は何に依拠するのかということになり、無限後退に陥ってしまう。アリストテレスにしても、形相を持ち出して来たところで存在をうまく扱うことはできない。ハイデガーは、『存在と時間』の冒頭で、プラトンの『ソフィスト』から引用する形で、存在に対する哲学者の困惑を伝えている。

というのも、「存在する」という表現を使う場合、じぶんたちがそもそもなにを意味しているのか、きみたちのほうがやはり、ずっとまえからよく知ってるのはあきらかだからだ。私たちの側はどうかといえば、以前にはそれでも理解していると信じていたにもかかわらず、いまでは困惑してしまっている。

存在の意味を問うために、ハイデガーは、その存在を了解している当の人間について分析を進めていく。存在を了解することを「存在了解」というが、この存在了解がどのような体制に基づいているのかをハイデガーは執拗に追い求めていく。その過程で実存が大いに問題になってくる。明示的には書かれていないのだが、どうもハイデガーは、本来的な実存体制における存在了解と、非本来的な実存体制における存在了解は異なっていると考えているようだ。すると、プラトン以来のすべての「学」は、非本来的実存体制における存在了解に支配されていることになる。この存在の特徴をハイデガーは「目の前にあるあり方」と書き表している。自然科学における物質の捉え方が「目の前にあるあり方」とほぼ同義であろう。

一方で、ハイデガーは本来的実存と非本来的実存では、時間に対する重点の置き方が異なっていると分析をしている。我々が生命活動を続けるには、さしあたりたいていは(これはハイデガーが幾度となく使う句で非本来的実存体制を暗に指し示している)、目の前にある何らかの存在を認知し、その存在に応じた行動をとるという連続的行為をおこなっているわけだが、ハイデガーは、行動するに先んじて何らかの存在を認知するその当のものを「気づかい」と規定している。この「気づかい」こそが時間観念を生み出しているものであり、本来的実存であろうが非本来的実存であろうが、実存体制には「気づかい」すなわち時間性が原初的に備わっているとする。

非本来的実存にあって我々の「気づかい」は、「目の前にあるもの」を捉え、その捉えた対象から転じて我々の現在を引き寄せるという体制をとっている。すなわち現在に重点がおかれている。

それに対し本来的実存体制においては、我々は「もっとも本来的な可能性=死」からけっして目を背けることができない。そこで将来(未来)に重点がおかれ、「目の前のもの」は「瞬視」されることになる。目の前に見える、物質および事象。それは<ひと>の世の中において重要となる何物かであろうが、本来的実存体制における存在了解にあっては、必ずしも重要なものではないかもしれない。

このように、実存体制が異なれば、存在了解も異なってくる。当然、価値観なども根底から変わってくるだろう。本来的実存における存在了解が具体的にどのようなものか、よくわからないにしても、19世紀までの「学」がすべてこの実存体制から生じていると批判したハイデガーの功績は大きい。それは新たな「学」が生まれる可能性を導くからである。

デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と考えた。これがハイデガーにしてみれば、むしろ逆になる。我が在るからこそ、我は思うのではないか。つまり、「存在」が基底なのであって、それを拠り所にして「考え」が生じると見る。それなのに根底にある「存在」を通り過ぎてしまい、それを問題にしないでどうする、と考えるのがハイデガーの立場なのである。ハイデガーが、デカルトと同じ誘惑に駆られていた師匠のフッサールと袂をわかったのも無理はない。

そうはいいながらも、『存在と時間』における論の進め方は、フッサールは否定するかもしれないが(実際に否定したらしいが)、ハイデガーがフッサールから学び取った現象学の方法で貫徹されている。僕はフッサールの現象学についてほとんど知らないが、現象学のなんたるかをハイデガーによって鮮烈に教えられた気がする。

ハイデガーは『存在と時間』の中で「良心」を定義している。この定義を紹介して、この感想を終わりにしよう。ハイデガーによる「良心」の定義は容易には理解できない。彼による「良心」とは、非本来的実存体制にある自分を、本来的実存体制へと引き戻す声のことをいう。ハイデガーによれば、良心とは社会にあって相対的に規定される概念などではなく、本来的実存に立ち戻る行為そのものを指すのである。それがなぜ良心となるのか。ハイデガーは多くを説明していない。つまり、自分の頭で考えなさいということだ。