昼寝好男のブログ

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『論理学』,野矢茂樹 〜 読後レビュー 〜

型付きラムダ計算に関する記述を読んでいたら、論理記号から拝借したという記号にまったく親和感がなく、そういえば自分は論理学についてちゃんと勉強したことがなかったなと思い至り、この本を購入して読んでみた。

この本を選択した理由は3つある。もっとも大きな理由は、この本の著者、野矢茂樹がウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』(岩波文庫版)の翻訳者であるということ。野矢氏による詳細な註釈は、ウィトゲンシュタインの本を読み進める上で大変役立ったのだが、同時に翻訳者の論理学およびその歴史に関する洞察の深さを感じさせる内容であった。

この本を選んだ第2の理由は、学生が論理学の基本を勉強するという目的に対して十分な内容を持っていながら、同じレベルの本の中では最もとっつきやすそうだったということがある。本書は、形式張った定義や公理の提示の後、道元と無門という禅僧に著者を交えた3人の会話があちこちに挿入されている。それらの会話は、ときには素人が陥りやすい箇所について注意喚起するため、ときには論理学の深淵を覗かせるため、ときには論理学に対する入門レベルを超える著者の洞察を開陳するために挿入されている。それでいてざっくばらんな会話という体裁を保持しているため、読者は気を張らずに、かゆいところ(重要なところ)に手を届かせることができる。

第3の理由として、あちこちのレビュー欄で評価が高かったことが挙げられる。比較的読みやすいとはいえ、小説を一冊読む速度で理系書を通読することはできない。それだけの時間をかけて読むのなら、評判のいい本に手を付けたかった。

本書を通読してみて、予想に反して自分は論理学についてけっこう知っているんだなと思った。本書の約半分を占める命題論理と述語論理については、どこかで習ったという具体的な記憶はないものの、内容については知識としてもっているし、それらを用いた式の運用にも困難はない。ただしそれは道具として使えるというだけで、本書が強調している、論理学の公理系を意味論と形式論の両面から捉え、その上でメタ論理による完全性と無矛盾性のチェックをするという観点はすっぽりと抜け落ちていた。

もうひとつ、本書の前半を読んでいる時に思ったことがある。僕は事あるごとに『そのうちアリストテレスが構築した論理学を学ばなければいけないな』などと思っていた。哲学関連の本を読んでいると、あちこちでアリストテレスの論理学について言及があり、一度どんなものか、おさえておくべきだな、と思っていたのである。だが、本書を読んでその必要性はないことが理解できた。本書は、アリストテレスの論理学を概観した後、その限界を指摘する。アリストテレスから脈々と伝えられてきた論理学をフレーゲが解体し、記号論理学を打ち立てたことにより、論理学が扱える範囲がどれほど広がったことか。僕が知らず知らずのうちに道具として使えるようになっていた記号論理学は、アリストテレスの論理学よりもよほど豊かな表現力を備えていたのである。

『論理哲学論考』において、フレーゲとラッセルは批判の矛先であったが、本書においては彼らの名誉が回復される。フレーゲが打ち立てた記号論理学が放っていた輝かしい光と、そこにラッセルが見つけた一点の曇り。ラッセルのパラドックスとして知られる論理のほころびは、数学者を震撼させた。「数学の危機」とも言われたこの大事件を、本書はドラマティックに紹介する。そして、そこから展開された直観主義や形式主義へと解説を進めていく。その説明の中で、著者は排中律の成立しない公理系についても概説する。こうして絶対視しがちな「公理系」を見事に相対化してみせる。そのような「異種」の公理系が作られたのは、(奇をてらったわけではなく)背景に人間が日々使っている言語の論理があるという。我々があまり意識することなく使っている「論理」の豊かさを改めて思い知った。純化した論理学の体系を見ることにより、曖昧で多義性があるがゆえに豊かな自然言語の姿がよく見えてくる。

本書は最後に、ゲーデルの不完全性定理へと歩を進める。この定理の証明は本書の範囲を超えるため、比較的直感的に受け入れることができる補助定理を前提にしたり、証明を簡易化したりと、駆け足感は否めないが、それでもメタ論理をも扱える自然数の公理系の枠組みの中で「私は証明不可能だ」に相当する自己言及型の定理を組み立てるというアイデアの斬新性がよく伝わってきた。